2011/03/19

支援物資配送レポート(山形市)

317日、山形市に長野県各地で仲間と集めた物資をもっていって来ました。自分は中越沖地震の時に柏崎市の奥さんの実家にたまたま居合わせ「被災」に対する少しの経験があったので「きっと何か力になれる事がある」と考え、仲間と話し合って辿り着いた行動でした。今回の災害は冬の東北という事もあり、生き延びた方々の多くは未だに余震や寒さ、食糧難など、過酷な状況の中に居ます。
自分や周りの仲間は寒い場所での行動、過ごし方に多少の知恵と経験があり、Snowboarding を通して幾らかの影響力とネットワークを持っています。それを活かして、いま出来る事として、まず被災者の方が使えそうで僕らが使っていないウェアなどの防寒着や、マットなどキャンプ・グッズ類を集めました。
その集めた物資をどの様にして何処にもって行くかが大切なポイントですが、被災地からの少ない情報とそのエリアに居る仲間(比較的軽いとは言え、彼らも被災者です。協力本当にありがとう。)からの情報を頼りに、必要な場所を探し出し、配達の場所・方法を決めました。
もちろん「個人からの物資は受け取らない。」「衣類などは逆に困る。」など、ニュースや政府からのメッセージは知っていたし、この行動について賛否は分かれることも分かっていました。被災地で「迷惑な人」になること程最悪な事はありません。僕自身、今回の動きを「間違っていた。」とは思いませんが、これを「みんながやった方が良い」とも思っていません。同地への宅急便の受付が今日から始まったり、状況は刻一刻と変わるし、反対に被災地から自分のすむ街に被災者が避難して来る可能性も高まっています。だから、同じ様な動きをしている方、しようとしている方には、状況をよく見て、冷静に、臨機応変に行動する事(又は、しない事)を勧めます。

さて長くなりましたが、実際に山形市に物資を届けた僕たちの今回の報告を書きます。

積み込み仕分け作業が済んで、247(仁科正史)と大町市を出発したのは午前11時過ぎでした。「道はなるべく日本海側が良い」と言うことだったので、まず日本海・糸魚川へ向かい、そこから高速で胎内市まで北上。そこから下道で小国町、南陽市を通るルートで山形市に向かうことになりました。
山形市には長年の友人西田崇が居たので、変わっていく状況を聞きながら進みました。出発前にもっていた情報では、日本海側から山形市に入れるとのこと、比較的被害が少なかった山形市の市役所が被災地向けの物資を集めているという事でした。その段階では山形市への荷物の発送は無理だったので、その先(仙台市などでの受入)の情報が入らなければ、まずそこまででももって行く事にしました。もし情報が入れば(自分達の安全第一ですが)最長で仙台市まで(前日に山形市から車で行った友達の話も聞いていたので)行こうと思っていました。

"902"(snowboard shop)のマッキー・"Swell"(Band)のケイタ・Ever Green(ガイドカンパニー) のデイビッドから託された義援金を使って、オムツやマスク、生理用品などを買って、糸魚川から高速に乗りました。そして新潟市手前辺りで山形のタカシから「福島・宮城から1000人近い人が市内に避難して来る。」「ウェアなど防寒着必要。」という情報が入ったので、そこを今回の搬送先に決めました。
燃料は多くの場所で20Lまでと言う事だったので、非常用に20Lを積んだうえ、何カ所かでこまめに給油して、最後に胎内市で満タンに出来る所を見つけて113号で東へ向かいました。
19時過ぎに山形に到着し、タカシと合流して直ぐに現場のスポーツセンターに向かいました。受付で物資の置き場を聞いて車(Hi-ace)から満載の荷物を降ろすと、タカシもスポーツセンターの人もビックリの量でした。入口から一階降りたその置き場に、タカシ・247GKの三人で運んで約30分程かかりました。その途中、炊き出しのウドンを食べながら近づいて来たオバちゃんに声をかけられたので、なにげなく「何処から来たの?」と聞くと「南相馬から」と言う答えでした。僕は「長野県から物資を持って来たんだよ。」とか言えたらもしかしたらオバちゃんは喜んでくれたかも知れないけど、南相馬と聞いて完全に言葉を無くし、「家は」とか、「家族は」とか聞こうか迷った挙句「オバちゃん、無事でよかった。ね。」としか言えませんでした。オバちゃんは「ウドンが美味しい。」と言って笑いかけてくれました。荷物を運び終わって、体育館の中の様子をちょっとだけ見て、受付ヨコに貼ってあった避難者リストを見ると、今回最も被害が大きかった場所の一つ、南相馬市と相馬市からの避難者の方たちだと分かりました。たしかにそこに居たほとんどの方は、身につけているもの以外何も持っていない様子でした。「(使える物なら)どんな物でも助かります。」と言っていた職員さんの言葉がリアルに響きました。
仕事を終えて、タカシと別れて帰ろうとした時、入口近くにいた40代位の女性が話しかけてきました。
「ボランティアの方ですか?」
「いえ、物資を届けに来ました。」
彼女は深々と頭を下げ「ご苦労様です。ありがとうございます。」と言ってくれました。
「がんばって下さい。負けないで。」
そういって僕らはニッコリ笑って頭を下げ、その場を後にしました。
 
その避難所にはガス/電気/水道もあったし、夜は暖房もつくとの事でしたが、広いとはいえ仕切りもない体育館に600人(その後1000人に増える予定)、健康を保つのは簡単な事じゃないと思います。今日本には数十万人の人が同じような状況だったり、もっと過酷な状況の中過ごしています。これからもっと沢山の力が必要になります。支援のカタチは様々ですが、みんなの知恵、力、心を合わせてこの危機を乗り越えなければと思います。
電気とのつきあい方、自然(地球)とのつきあい方、人同士の繋がり、様々な大切な大切なことを考える機会だと思います。
僕らは今この世界を生きる人として、必要な物、要らないもの、やりたい事、やりたくない事、やるべき事を見極めて未来を(現在を)つくりましょう。

今回僕らは、必要な物を必要な人に届けられたと思います。しかし、自分や仲間たちの行動に対し否定的な意見もあるかとも思います。テレビでやるなと言っている事だったりするのでそれはある意味当然です。政府や、メディアを批判する気はありません。右も左も分からないコントロールの利かない人が、被災地に入ったら邪魔だと言うのも分かります。ただ、「被災」を経験した人間として、そこに物資が本当に要らないのか?人手が本当に全く必要ないのか?何となくですが、自分なりのビジョンをもっての行動です。だから、これを見て、「オレも。」的なノリでやろうと言う人はしっかり考えて行動して下さい。
突き動かされ、止める事の出来ない思いを持っている人を自分は止めようと思いません。
賛成の人も、反対の人も、しっかり自分の胸に聞いて未来に向かって行動して下さい。
後悔のない様に。

最後になりますが、急な呼びかけに協力してくれたみなさん、本当にありがとうございました。
みんなのウェア/支援物資、そして僕たちに託してくれた思いは、沢山の人の手を通って無事被災者の方々に渡す事が出来ました。
集めて運んでくれたシン、タナ、ヒデバ、ナベさん、二郎ちゃん、ありがとう。
義援金をくれたケイタ、マッキー、ありがとう。
沢山の物資と義援金を提供してくれて、会社の車まで貸してくれたデイビッド。本当にありがとう。
一緒に行った247、現地で動いてくれたタカシ。ありがとう。
被災した人も、原発と闘う人も、ボランティアに行く人も、募金した人も、いつも通りがんばっている人も、避難した人も、まだ何もしていない人も、みんな応援してます。
本当の復興はまだまだこれから、自分に出来ることをやっていこうと思います。
がんばりましょう!

小松吾郎

2 件のコメント:

  1. 小松吾郎さんへ
    ずくなしぷれすの梅田です

    この3/17のレポートは 1回目の配送ということでしょうか?
    3/22の配送の様子の概略はメールで聞いていますが
    詳しいレポートはまた アップできますか?
    今回は お手伝いできて とてもうれしいです
    今後とも よろしくお願いします
    以上

    返信削除