2011/03/29

仙台&東松島



山形から帰った後、今何をするべきか考えながら、数日普段通り過ごしていました。そこへ仙台市の友人から連絡が入り、多くの避難所で物資がまだ殆ど届かず、被災地はかなり過酷な状況で、(こちらから)何か出来ないだろうか?と言う電話でした。「すぐ動こう。」ちょうどその前日、何人かの方から物資提供の話を頂いていたから、すぐ連絡して物資を集めてもらいました。人から人に繋がって、一日でハイエース満載の物資が集まり、次の日(22日)の昼に出発する事が出来ました。今回は警察署で緊急車両として登録出来て、高速道路料金が無料になったり、一般は入れない道に入れたりしたので、金銭的にも時間的にもかなり楽になりました。燃料の確保も優先的にやってくれるという事でしたが、そこには甘えない様に40Lの軽油を積み、各地で少量給油をしながら北上しました。事前に山形から仙台には行けると聞いていたので、今回も日本海側から山形を通るルートで行く事にしました。大町市から山形市は7時間近くかかります。夜被災地(仙台)についても動けないと考え、山形の西田タカシの家に一晩お世話になりました。タカシは前回僕らがいった後も、沢山の支援グループのガイド的な役割を果たして、何度も被災地に足を運んで頑張っていました。
6時に起きて荷物を積みなおして、7時過ぎに出発、緊急車両の特権をいかして閉鎖中の高速で仙台へ向かいました。連絡をくれた仙台の友人ナルミさんに連絡を取ると、同じタイミングで東京からDRM1KのMITくんが向かってると言うことで、一緒に動く事になりました。
仙台に着くと、(こう言うと失礼かも知れませんが)街は一見普通に見えました。車が行きかい、沢山の人が街を歩き、信号や商店の感じから、電気が来てるのが分かりました。でもよく見ると、色んな場所で壁が剥がれ落ちていたり、ありえない方向にひん曲がった電柱や建物がちらほらと見えてきて、いきなり一個だけ付いてない信号機で危なく突っ込みそうになって、スピードを緩めました。
ナルミさんの会社は仙台の卸町と言う所にあって、海も近く、大被害があった場所から信号6個しか離れていません。高低差は殆どないのにそのエリアが助かったのは、高速道路の土手が防波堤の役割を果たしたからでした。僕と同乗の西山 勇 、ほぼ同じタイミングで到着したMITくん と伊藤くんで、再会したナルミさんの無事を喜びました。話を聞くと仙台市はようやく物資が届き始め、ご飯も2日前から3食食べれる様になったということで(それまでは家族4人で一日おにぎり1個だったとか)、物資はナルミさんの知人が避難している東松島市の避難所に届けることになりました。東松島市は仙台市からから4、50分程北東にあります。仙台市や隣の石巻市同様に被害は大きく、高速道路を降りて直ぐに今回の震災の壮絶さを目の当たりにしました。川にはガレキや流された家、車などが散乱し、海岸から2kmほど内陸にある45号線も、やっと車線二台分だけ片付けられた様子で、周りには瓦礫や砂、泥などの堆積物が大量に溜まっていて、その横の田んぼや畑があったであろう場所は、未だに水が引かないまま池のようになっていました。ところどころに家の一部分が浮いていたり、車が刺さっていたり、想像を絶する景色が何キロも何キロも続きました。いたるところで自衛隊員が道路や建物から瓦礫を取り除く作業を続け、地元の方が残された家から泥を出したり、片付けを始めていました。
物資を配達した場所は、矢本町と言う町の高校で、そこには約300人が避難しているとの事でした。通常、避難所とされている場所は全て一杯になってしまって、否認可で急遽使われている場所でした。その避難所は、近くの水産加工場の止まった冷蔵庫から食料の提供があったらしく、(その時点では)食料より防寒着、毛布、マット類などが欲しいと言う事で、それらの物資を中心に荷物を降ろしました。東京クルーの支援物資は食料中心だったので、そこからほど近い別の避難所に届ける事になりました。その場所が何の施設かは覚えていませんが、町役場の様なその避難所には60人程が避難していました。ぎりぎり食べる分は届いているようでしたが、食材の配達は大変喜ばれました。
避難所のなかは、1人畳一畳分ほどのスペースにダンボールと毛布を敷いてもう一枚の毛布をかけて寝ている様でした。自分のスペースに幾らか持ち物をおいている人も居ましたが、何もおいていない人も沢山いました。ダンボールがむき出しになっている通路には、子供達が絵を書いていました。「退屈だからね。」とオバちゃんが笑いました。避難している子供のなかには今年学校を卒業する子もいたから、みんなでお菓子などを持ち寄って卒業式をやってあげたと教えてくれました。
どちらの避難所でも感じた事ですが、沢山の人が力と知恵を合わせて、協力して、前向きに、震災に立ち向かっています。最悪の状況に負けずに復興を目指しています。原発の問題もあり、これからどうなっていくかは今の時点では分かりませんが、伸ばせば手が届く所にいる自分たちも、可能な限り手を差し伸べるべきだと感じます。現場は、地元の人たちだけではもちろん、システム(国)の力でも救いきれる状況ではありません。人が人を助ける為に動かなければ、システムの想定を超えたこの震災の犠牲者は増えていくばかりです。
配達を終えて、帰る前に仙台の1番被害が大きかった場所を見て来ました。本当に本当に見るだけでも辛い、ひどい光景が広がっていました。「ガレキをどけるだけで何年かかるんだろう…?」ところどころで作業の車が地道に一つずつガレキをどけていました。
被災したのは東北だけじゃなくて日本です。最適な支援の形はどういう形かは分かりませんが、私たちは何か出来る事をしなければいけません。自分達の経済活動、普段通りの自分たちの生活もモチロン大切です。だけど、それだけではいけないと思います。普段通りやろうとしても、普段通りの東北、普段通りの日本はないんです。行政にも限界があります。民間が、私たち「人」が、考え、動いて日本を救わなければいけない。そう強く思います。
今回支援に協力してくれたみなさん。(白馬/らっぴーさん、板屋クラフトさん、エバーグリーンさん、illy'sさん、ポンちゃん。大町/ずくなしプレスさん、風の森幼稚園さん他)ありがとうございます。自分達が運べる物はわずかですが、被災者の方は本当に喜んでくれました。山形のタカシ、仙台のナルミさん、シンペイさん、勇、MIT、伊藤くん、ありがとう。ぼくが被災地にいく事を許してくれている家族にもありがとう。放射能ははっきり言ってメチャクチャ怖いしイヤだけど、みんなで出来る事をやり続けよう。未来をつくりましょう。そしていい加減、今度こそ、原子力から抜け出そう。

gk

避難所 
 仙台市先に見える橋が高速道路
高速道路をこえた所 
 流れがたまった場所に車や瓦礫もたまる、海まではまだ1km以上ある
 こんな光景が何キロも続く
海まで200mぐらいの場所

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